ダイナス製靴の歴史は、そのまま創業者・菊地武男の歴史とも言えます。手先が器用で有能な旋盤工だった菊地武男が稼業としての“靴”に出会ったのは、戦後まもない混乱の時期でした。当時の日本では、統制で革靴はほとんど作られていないこともあり
、「古靴の買取」を始めた菊地は小さな成功を収めましたが、その頃の菊地には「機械工場」を持つという夢があり、靴はそのための“稼げる商材”に過ぎませんでした。
その後、1949年に「菊地商店」を開業し、靴の小売卸業に参入しましたが、思うように成功を収めることはできませんでした。元来、ものを作ることが好きな菊地は、1965年には靴工場を持ち、靴の製造に乗り出しましたが、工場は半年で閉鎖。様々な苦難や挫折を経験し、一旦はメーカーとしてやっていくことを諦めかけましたが、ものづくりへの想いは断ち切れず、個性的な婦人靴の製造で再挑戦することにしたのです。
そして1966年、それまでの「菊地商店」を「ダイナス製靴株式会社」に改組。“ダイナス”とは“大を成す”の意。靴作りに人生をかける菊地武男の想いがここに込められました。1973年、現在も本社を構える王子に新社屋が完成し、そのビルの地下に念願の工場を持ち、数名の職人を抱えるようになりました。現在のダイナス製靴の原型はこの時に出来上がったと言えます。
一方で、菊地は当時の靴のあり方に疑問を持っていました。自分の足型の石膏と木型屋から買ってきた木型のあまりにも大きな形状の違い、娘たちの履く靴が激しく型崩れしていること。靴が足に合わせるのではなく、足が靴に合わせていたことに気がついたのです。菊地は、それまでにも娘が時折「足が痛い」と言っていたことを知っていたのですが、靴とはそういうものだという思いがあり、娘の訴えを聞き流していました。約20年にわたり靴の小売・卸・製造を生業としてきたにも関わらず、自分が娘に与えていた靴によって、娘の足は変形し、靴を履くたび、歩くたびに痛い思いをさせていたということが、初めて大きな問題に思えてきました。そして、自分が勧めて売った靴を履いた多くのお客様が、自分の知らないところで娘と同じように足を痛くしていたのだと知ったことで、大きな衝撃を受けました。 |